skip to content

Faculty of Asian and Middle Eastern Studies

 
Venue: 
FAMES Room 8/9
Event date: 
Tuesday, 19 February, 2019 - 17:00 to 19:00

『引揚、定住、残留、「密航」-第二次世界大戦後東アジアにおける人の移動』

“Repatriation, Settlement, ‘Left-behinds’ and ‘Smuggling’;

the racial migrations after W.W.II. in East-Asia”

                         

蘭 信三(Araragi Shinzo)

Sophia University, Tokyo, JAPAN

 

 1945年9月2日に「大日本帝国」が崩壊し、第二次世界大戦後の東アジアは新政治秩序が模索されていった。少し後に東西の冷戦が始まり、各地のガバナンスをめぐり強い緊張関係が生じた。たとえば、1946年から中国東北を主戦場として国民党と共産党による内戦が再開され、49年に中華人民共和国が建国された。47年春には台湾で国民党による白色テロ2・28事件が、48年春には同様の白色テロ4・3事件が南朝鮮・済州島で勃発し、いずれも多くの住民が虐殺された。そして、50年に朝鮮半島で南北朝鮮がぶつかり合う動乱が勃発し、米国と中国が参戦して200万以上もが亡くなるという朝鮮戦争が戦われた。

このような東アジアでの急激な社会変動に伴い、多くの人の移動がもたらされた。その主たるものは引揚げであった。植民地に住む360万の日本人の引揚げが命じられただけでなく、日本や満洲に住む400万の朝鮮人等の引揚げも命じられた。同時に、満洲や樺太の朝鮮人等は定住が許可されるなど、その政策は複雑であった。

そもそも、東アジア、とりわけ日本人への引揚政策は米国が中心になって策定したが、その政策的モデルはヨーロッパにあった。それは東欧やソ連からのドイツ人の追放政策であり、それをさらに遡ると19世紀末からのヨーロッパにおける民族マイノリティ問題があった。多民族帝国から国民国家の時代となり、ヨーロッパで混住する多様な民族はトラブルを避けるために住民交換をしたり、民族浄化を行ったりしてきた。第一次世界大戦後、このような民族マイノリティ(national minority)の保護が世界の課題となり、ギリシャ・トルコ間の大規模な住民交換は民族マイノリティ問題のひとつの解決モデルとされた。

ヨーロッパにおける民族マイノリティの保護政策と追放政策はある種矛盾していたが、それが戦後東アジアの引揚政策を規定し、同時に東アジアの政治情勢のなかでそれは複雑に運用され、多様な実施となったのである。

そこで、本報告は、(1)その多様で複雑な戦後東アジアにおける引揚政策と実態を明らかにするだけでなく、それを手掛かりとして、(2)戦後東アジアにおける多様な人の移動の状況と背景を読み解いていきたい。また、それらを規定した(3)ヨーロッパでの理念と政策モデル、(4)アジア各地での政治状況、冷戦の影響、民族ごとの対応から詳細に論じ、(5)戦後東アジアにおける人の移動の世界史的な文脈と、東アジア地域の政治的変化及び社会変動を明らかにしていきたい。